更新:2017/04/08
リニアについて私見
投稿者:らんごく
かつて飯田市はリニア中央新幹線と同じく、鉄道路線の誘致で盛り上がったことがあるのをご存知でしょうか(市民レベルで盛り上がったか行政にとどまるのかはわかりませんが)。国鉄中津川線がそれです。飯田と中津川の区間に神坂トンネルを通じて下伊那地域と中京圏を結ぼうという計画でした。国が計画を推し進めたにもかかわらず難工事だったことと、先に中央道が開通したことで頓挫し、二ツ山トンネルなどが廃線跡として残されています。
私が一番心配に思うことは、リニアの計画がこの中津川線と同じ道をたどるのではないかということです。スケジュール通りにいかず工事関連費用が当初の予算を上回る規模になるなど計画が頓挫した時に、いったい誰がどう責任を取るのか、そしておそらくは誰も責任を取らずうやむやにされるのではないかという心配です。
難工事を理由にした工期の延期、想定外のトラブルという説明で予算を追加するなど引き戻せず立ち止まれないことによる負の影響が容易に想像できてしまう怖さがあります。あれは一私企業が進めたことと国交相がいい、あれはアセスメントをしても予想し得なかったとJR東海がいい、土地を追われ工事によって不自由な生活を余儀なくされた沿線自治体の住民だけが取り残される形になるというシナリオ。そんな結末になるのではととても気になったので、似たような例を探して中津川線を取り扱う「広報いいだ」の記事の変遷を追ってみました。飯田市が責任発行する媒体です。
昭和33年1月には飯田〜下呂線が国鉄において調査線から建設線(着工線)に繰り上げられるよう全市をあげて取り組む必要があるとの記述があり、「将来の伊那谷の発展は本鉄道と中央自動車道の二問題にあって、これ(調査線から着工を前提とする建設線への編入)の成否は伊那谷の生死を決すると云っても過言ではありません。」と市の必死さが伝わる内容になっています。昭和37年4月には時の通産大臣佐藤栄作氏を中央公民館に招いた市民大会が開かれ、前後して建設線への編入が決まり、氏の言動に踊らされる様子が見て取れます。昭和41年の年頭挨拶で名誉市民の河竹繁俊による中津川線開通を歓迎する文章が掲載され(一方で飯田市の景観が汚される懸念も表明されている)、その後は中津川線というコーナーを毎号設けて工事の進捗状況を報告してはいるのですが、昭和46年2月号の「国鉄中津川線の建設に明るい見通し」というタイトルの記事を最後に中津川線が広報の中で一切扱われなくなっています。(以上、『広報いいだ縮刷版(上)(中)』より)
推測するに、いろいろな理由はあったと思うのですが、 ある時を境にその地方を揺るがすほどの大プロジェクトが何の前触れもなく収束・沈黙する不気味さを感じました。他の媒体で説明されていたかもしれませんが、毎号中津川線に記事を割いていたことを考えると、同じ紙面でなぜ中止に追い込まれたかの説明があると考えるのは自然なことだと思うのですが、そうした記述は私が探す限り見当たりませんでした。
飯田市議会内のリニア推進特別委員会の議事を見ると、相変わらずリニア駅の乗降者数を6,800人/日と推計しており、巨大災害時には日本を支える覚悟で飯田市が食料とエネルギーの供給拠点になるということを大真面目に取り上げていて(リニア推進特別委員会議事録参照)、つまり普通の感覚でいえばこのリニアの計画が間違いなく計画通りにいかないと予想できてしまう状況がいくつも転がっていて、第2の中津川線の悲劇、作ったけど使われないというムダが十分起こりうると私は危惧しています。そのことに飯田市がどこまで自覚的か、おそらくはそうではない状況がそこかしこに転がっていて、例えば飯田市長が小・中学生の卒業式や入学式に寄せる祝辞の中で、リニアが飯田を変える起爆剤になると言ってしまえる無責任さを私たちはもっと追及していく必要があるのではないでしょうか。
土地を追われ、まちの景観を損なわれ、税金がこの関連工事に使われ、何年も工事車両によって不自由を余儀なくされ、それでもなおリニアの工事が予定どおり進捗せず費用がさらにかさむといった事態になった時に、この工事自体を検証する仕組みを用意しておかないと、無責任が横行するだけになります。そして、責任を取るべき工事を推進した面々はすでにこの世にいないといった状況も十分考えられ、飯田市とは所詮、「文化経済他力都市」だったことが露呈するだけの惨めな結果しか見えません。リニア計画は、技術的経済的環境的に問題があるだけでなく非常に無責任な国家的プロジェクトであることをもっともっとあらゆる場面で知らせていくことが必要だと思っています。